偶然から意味へ。意味は自分で決めるもの

偶然とは怖いもので、有無を言わさず不意に訪れる。
だからこそ、偶然はシンボリックに事実を突きつける。
つまり、偶然とは事実の過剰な演出装置なのだ。


そして、ここが大事なところなのだが、
そうして突如立ちはだかった事実はいつも、
僕にそれがもたらす意味の選択を迫るのだ。


偶然とは、自分が予期してないからそう言うだけであって、
偶然によって解き放たれる事実がいずれは明らかにされることを考えると、
遅かれ早かれどちらにせよ起こるべくものであると考えられる。
よって、偶然に一喜一憂する必要はないし、
時にそれはとても受け入れがたい事実だったりするが、早く起こった方がよい。


偶然によって現れた事実は幾つかの意味を帯びている。
偶然とは幾つかのメッセージを孕む不発弾であり、
幾つかの意味そのものが最も凝縮されて現象化したものなのだ。


それに対し、意味を選び取るのは僕だ。僕自身が意味を決定付ける。
この構図を決して忘れてはいけない。絶対に。
僕はともすれば、偶然が意味の完全体として表れ、
たった一つの揺ぎ無い意味を突きつけてくると考えてしまう。
そしてただただその意味を受け入れるしかないと受容的な態度を取ってしまう。
そうではないのだ。間違ってはならない。
偶然、事実、それらの意味は自らが決定するものなのだ。
このことを忘れがちだった僕はそこから卒業しなくてはならない。