自分で食べるものを作るということと生きるということ

この2つの間に存在する親和性を感じている。

生きる上で食べることは必要不可欠なことから、
食べることは生きることと同義であると言え、
生きるために食べるものを考えることは
人間にとってはごく自然のことのように思う。


人が作ったものを食べて生きることと、
自分が作って食べて生きることの間には
決定的な乖離が存在する気がしていて、
僕はどうしてもそれを考えずにはいられない。

人に作ってもらったものを食べるということは、
自分の生は人に生かされているということであり、
逆に自分で作ったものを食べると言うことは、
自分の生を自ら生きるということになるのではないか。

己の生を自ら生かす、又は自ら身をもって生きるためには、
自らの手を汚し、自ら手間暇をかけて
自分の食べるものを作るべきなのだと強く思う。


本当のことを言えば、自分で“種”を作るところから始め、
その成長する過程においていろんな世話を見てやり、
最後に成熟した“果実”を収穫することが必要ではあるが、
もちろん、実際にはその手間暇をかけることができない。
それをとても寂しく残念なことだと思うが、割り切るしかない。

しかし、自分が現実の状況においてほんの一点ではあるが、
それらの素材に対して関与できる瞬間として、
料理、すなわち自分で食べるものを作るということが存在する。
一方、様々な人たちの手による分業によって生み出されたものを、
最後の最後まで人の手に委ねてしまうことは、
僕にとっては究極の責任放棄の何者でもないように感じる。

つまり、自らの生を自ら生きるということを考えた時、
素材との関与としての料理は重要な意味を持つのである。

だからこそ、僕はできるだけ自らの手で料理をしていきたい。
そして、人に料理してもらったものを食べる時は、
料理してもらったことへの感謝を忘れずに食べていきたいと思う。